疲れすぎて今なら時空を超えられる

最近は疲れすぎて時空を超えるような感覚に襲われる。

家に帰り、服を脱ぎ、ソファに座って息をつく。お風呂いれなくちゃ。と不意に立ち上がった時、違う時間軸にきてしまったような、「瞬間」をさらにショートカットしてしまったような感じ。

たちあがったとき、立ち上がるというアクションをした記憶があまりにも速いので自身で認識することができず吃驚する。

 

 

パクチー

私が単に好意をもっているから無意識に探しているのかもしれないが、都内を歩いていると、アジア系民族料理の店をかなりの頻度で見かけるようになってきた。

 

最近はルミネのおしゃれカフェ(噂話に忙しい女たちの魔窟)、パルコのマイメロディーカフェ(ぴんく色のかれーらいすを食わせることで視覚及び味覚の伝達を試す訓練場)など目に留まらず、タイ料理やベトナム料理の店へ直行する。

 

アジア系の料理は様々な香草をつかうが中でもすきなのがパクチーコリアンダー)だ。香菜(シャンツァイ)とも言われ、噛むと独特の清涼感のある香りを放つ。くったりと柔らかく細かな葉が連なっている植物だ。

私はタイ料理の店でカオマンガイ(鶏の脂で炒めた白米を鶏のスープで炊き、茹でたとり肉のぶつ切りが添えてある)を食べるとき、パクチーをもっさり載せて食べる。パクチーがとり肉のカワのとこの粘つくあぶらっこさを包み込み、後味に鶏肉のコクを残しながら清涼感とともにすうっとノドを滑り降りるているのを感じている三秒間、脳内でわたしはムッと暑い夜のタイの屋台にいることが出来るのだ。 

遅刻

いまちょうど遅刻している所なので、遅刻について書いてみる。

私はいわゆる遅刻の常習犯だ。
友達との待ち合わせ、授業の始まる時間、アシカショーのオープニング…どれにも大抵遅れてしまう。10分前に着く、ということが出来ない。いや昔はちゃんと出来ていたのだが、この頃は、毎日のフル回転のせいで頭の電池が切れかけているのか面白いことに必ず20分以上は遅れてしまう。

これだけ遅刻をしていると、待ち合わせの時間を指定するとき「14〜15時の間に着くようにいく」だとか、「お昼、それなりの頃合いに行く」だとか、この頃はまるで原始人のような約束ごとを交わすようになってきてしまった。私と待ち合わせをするからには読心術を体得して貰わねばならない。

だから現在渋谷で待ちぼうけをくらっている友人には、日時計ならぬ「頃合い時計」でも渡しておこうかな…などと考えている。

2015 0212

多摩美学科試験も無事に受けることが出来、今日で受験週間は終了。私大二つだけと言えど、実技二日×2プラス学科AB両日×2というのはハードだった。ムサビタマビどちらも有名美大ではあるが辺鄙な所にあるので、埼玉→東京→神奈川と往復四時間弱の小旅行をした気分。普段と違う場所へ行くだけで、反対方面の電車に乗るだけで、世界の見え方が新しく新鮮になるからすごいとおもう。人間の心は、どこまでも豊かにすることができる。色々な人の存在も知ることができる。
両親の助言通り、体力面を考えてAB日程両方に出願しておいて良かった。
小論文の問題は楽しめたし、普段埋れている感覚が呼び起こされるのでこれからも些細なことは文字にする習慣をつけたい。
去年は芸大一本だったので私大を受けることは考えていなかったが、本番で緊張してしまい本来の力を出すことが出来なかったし、周りの雰囲気に流され溺れているうちに終わってしまった。だから二回目の今回は受験慣れするという目的で受けさせてもらった。結果とても良い経験だと思う。普段と違うところで実力を発揮する訓練になった。相変わらず見切り発車をしてしまったけれど、これは本命への教訓として絶対に忘れない。



本番は大抵上手くいかないので(うまくいく保証はないし)、落ち着いて、見栄をはらず、自分の感覚で出来ることをするというのが大切だと知る。
オンリーワンという真実が良いとされる環境。そういった「心構え」「誠実であるか」を評価してくれる人達。
見えない普遍の真実を追い求め続ける人類。

もっと頑張りたい。頑張らなきゃ。と言っていたら、年下の子に、頑張っちゃダメなんだよ。といわれ、私は自分の中にもあったその言葉を、さらにもう一つ他人から口移しでもらって、 噛み砕いて味わって舌で確かめてのみ込んで、無言で頷いた。

「ジンクスなんて存在しない、ロジックを見つけることが大事だ。」とある人は言っていたが、私のロジックはどのようになものなのだろうか。

変化

水の流れに削られて石が丸くなっていくように、自分の変化に伴って環境も変化していくものまたその逆も然り。これは自然の摂理であって人の手では変えようがないことかもしれない。

 

2015 0207

予備校の新しいパンフはaさんの圧勝だった。もはや信仰の域に達しているのかもしれない。あの絵の前で死ねたら良いと思わせるような絵だ。ネロの気持ちが分かったような気になる。絵であって絵でははなく、あれはTHE heart,心そのものだと思う。
負ける負けないの話で単純化できないが、わたしももっと良い絵を描きたいと素直に思う。絵に感情はいらないのだったと思い出した。私自身はなすすべ無く絵の前でただ筆を動かす塊に成るべきだったのだ。あとは感情が勝手に噴き出て画面を構築していく。私はただ、そのイメージを放出へ導いてやる案内役であるべきなのだ。共感なくして名作とは呼べない。

芸大は、準備が出来て、なおかつ勇気を持って飛び込んだ人から受け入れていく。大人になったら受かるとはそういうことだと思う。風呂場や部屋の隅に隠れている自分を明るい部屋に引っ張り出してきて正座させ、そいつらと向き合わなければいけない。精神の思考量をもっと増やさなければいけない。奥まで見なければならない。

「芸大は絵ではなくて人をとる」
言葉が心に響いた。

アートパス

取手アートパス。

階段に言葉を貼る、空間にオブジェを置く、映像を流す、立体を作って動かす…など、インスタレーションは多かった。でも抽象的なものはやっぱわかりにくい。パッと見たときの印象や面白さが目立つ作品の方が、どうしても印象に残ってしまう。

絵画、平面の作品は、デッサン、人、風景、キャンバス2連、キャンバスをダルダルにして縫った作品…など。

(_さんは純粋であった。わかってやっているのかとか、駆け引き的なものも絡んでいるのかとすこし疑って、憧れを中心に嫉妬のような羨望のような崇拝のようなよくわからない感情を抱いていたが、無垢に自分の中だけを見つめているんだとわかった。狙う、という意識はあまりない。だから標的?というか意識を集中し過ぎるのはやめようと思った。わたしはわたしで勝負しなければいけない。)

やっぱり、絵の具の扱い、絵画的なもの、キャンバスへの意識…最低限必要!!

自分の主張などはまだうまく出せなくてパッとしなくても、絵画への知識はしっかりあるひとだけしかいませんでした。下手な人はまずいなかったと思う。


気になった点

主にインスタレーション系は、自分の世界観全開、という感じ。その世界観がよほど魅力的だったり説得力があれば良いと思うが、とっつきにくいものを「これが俺の主張だ!!」なんて押し付けてもちょっと親切じゃないと思った。説明書をつけるにしても、小さい紙にチョロチョロ…と描くんではなくて、しっかりよく見えるように、自分の思考の根拠→経過→結果を、絵や図を使うなどして伝えなければ駄目だと思った。どんな場面にしろコミュニけーションが取れなければ意味がなかった。(独りよがり=自分)

✴︎現実も表現も両方コミュニケーション取れるのが理想だけど、現実でそれが苦手ならば表現のコミュニケーションを特化させる。職人を目指す。向いてるほうでやればいい。

表現力も拙いのに、無言で「わかってくれ」と言うのはちょっと無理があると思いました。


あとは作品を公共の場で公開するということにおいて、自分が何をしたいのかとかいま何が出来るかを考えたり、それについて情報を集めたり、他の人がどんなことを考えているのかを知って視野を広げたり…

と言った事前準備がとっっっても大切なんだと思いました。すべての起因は準備不足にあると思ったし、私は事前準備を面倒臭がって怠る癖が昔から性格的にあるので、他の人より意識的に注意しなければ!!と思いました。



❶自分の描きたい絵を描く

❷伝えるために描く

わたしには特に❷が大事。

自分ワールドとか、世界観が、と言われることが多いので、世界観は大切にしつつ独りよがりにならないように気をつける。



結論

取手は静かで広くて、良い意味で閑散としていて制作に没頭したり思考を深めたり、自分を見つめてまとめるにはとても良い環境だと思った。新宿から1時間+バスで15minというのがすし遠いかな。でも校舎は自然光が天井から入るし吹き抜けだし、とても好きな空間だった。